IMAGE RINGS vol.1 5.25旗揚げ戦

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vol.1 イメージリングス 5.25旗揚げ戦


映像異種格闘技戦 
恍惚と不安――もの思ふ映像。

1995年5月25日(木) 15:00/18:00
会場:新宿Fu- 料金:800円
しまだゆきやす『トランタン(連歌30)』1995/8mm/40分
白尾一博『夜のプラモデル』1995/8mm/25分
村上賢司『月の裏側を走る』1995/8mm/35分
大嶋拓『冷ややかな乳白色』1995/VIDEO/40分
(協力:WIZ)

■ごあいさつに代えて――
イメージリングス代表 しまだゆきやす

「立てー!立つんやウルトラマーン!」
卓袱台を拳で叩きながら、オレは必死でブラウン管の中のヒーローに呼びかけた。
「おまえアホか」
横で見ていた親父が、ショートピースの煙を吐き出しながら、シラケた声で言った。(略)
翌日の小学校での話題は、ウルトラマン一色だった。
3年生になったばかりの悪ガキ連中は、誰も彼もが、ヒーローのショッキングな死に打ちのめされていた。光の国の仲間なのにすぐ助けに来なかったゾフィに、みんなの非難が集中した。
そんな中で、オレはひとり、こう心に誓った。
「よし、オレが強くなって、ウルトラマンの仇を討ったる」
本気だった。

これは、元プロレスラー、現プロフェッショナル・ファイターである前田日明選手の自伝『パワー・オブ・ドリーム』からの引用で、ぼくの大好きな部分である。「イメージリングス」の名は、この前田選手が現在主催する自主興行団体「ファイティング・ネットワーク・リングス」にあやかってつけたものである。「リングス」のリングにはプロレスやプロボクシングの競技場としてはもちろん、人と人をつなぐ「環」としての意味も掛けてある。8ミリ映画の自主上映会にそんな名前をつけたというのは、プロレスや格闘技がスポーツとショウ(見世物)の間を行きつ戻りつしながら、どちらの側にも安住の地を見い出せないのと同じように、映画もまた、芸術と見世物の間を永久に浮遊するものではないかと考えたからだ。
「なにをいってる。映画は芸術だ。プロレスなんかといっしょにするな!」という良識ある声が聞こえてきそうな気がする。確かにそうかもしれない。だが、芸術だと断られて教室やこぎれいな美術館で観る作品のなんと空しいことよ。襟を正して観ることの、なんともったいないことよ。ぼくは自作を「フィルムアート」だとか「ビデオアート」だとか呼びたがる連中が大キライだ。なぜなら彼らはどんなにすぐれた作家だろうと、権威主義者にほかならないからだ。しかしだからといって開き直り、「邪道」を叫んで見世物に徹せよというのではない。そうじゃない。悩め!といいたいのだ。常に模索し、常に観る者の予想を裏切り、頭を使い、肉体を酷使し、憧れ、苦しみつつ、振り子の軌跡を絶えず往復しろといいたいのだ。
たとえ失敗しても構わない。「もっと上手く、もっと面白く、もっと美しく」という届かぬ理想を秘めた作品に出会いたい――そのためにぼくたちは「イメージリングス」を旗揚げしたと思っていただければ、まずまちがいない。
ところで、前田日明選手とちょうど5才年下のぼくにも、彼と似たような経験がある。年の差にしたがって、ぼくが子供のころに観たのは「帰ってきたウルトラマン」の方だった。決定的にちがうのは、ぼくのトラウマとなったのは「ウルトラマンの死」ではなく、単なる脇役キャラクター「坂田健」なる人物(個性派俳優、故岸田森氏が演じていた)が宇宙人に殺されるシーンだったことだ。その瞬間、こんな理不尽なドラマを作る円谷プロに復讐してやろうと子供心に誓った。ぼくが8ミリフィルムを持つのはそのずっと後だが、キッカケはあの日のあのショックにあったと信じている。
(「イメージリングス5.25旗揚げ戦」パンフレット/1995年5月25日発行)

パワー・オブ・ドリーム (角川文庫)

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